平和公園の本川沿いの川岸には、県立広島二中慰霊碑、広島市立商業・造船工業学校慰霊碑と並んで、ちょっと勇ましい名前のこの碑があります。「義勇隊」とは、名前は勇ましいですが、本土決戦にそなえ、1945年6月1日「国民義勇兵役法」で、徴兵されなかった人達、年寄りや病弱者、女性等で結成されたものです。8月6日当日、軍の命令で市内の建物疎開に動員され、川内村180名が原爆の犠牲になりました。
建物疎開の目的は、軍の施設を空襲による火災から守るために周囲の家屋を、また避難場所をつくるためにその場に建っている家屋を取り壊すことで、市内の中心の六ケ所が選ばれていました。それで出来た空地を元に、後に平和大通り(百メートル道路)ができたのですが。
立ち退きが命令されると、住民は一週間以内に自分で移転先をみつけ、なるべく自力で引っ越しをしなければなりませんでした。一言の文句も許されません。取り壊し作業には地域や職場でつくられた「義勇隊」の人達があたり、その後片付けを生徒達が行いました。この日、軍の命令で市内地域義勇隊三万人、職域義勇隊一万人、市外からの義勇隊一万人が狩りだされたといわれています。殆ど全滅に近い状態でした。温井からの犠牲者もその中に入っています。のち温井は長らく「後家村」と残酷な名前で呼ばれていました。筆者の知人の場合、病弱な父親に代わって母親が出て亡くなったそうです。遺骨も判りません。母親の顔は覚えていないといいます。
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