44.マルセル・ジュノー博士像 (中区中島町1・平和公園外南)  
   
DR.MARCEL JUNOD(SWISS)1904−1961
 碑石裏面には、彼の著書「第三の兵士」より次の言葉が刻まれている
 無数の叫びが あなたの助けを 求めている
1945年8月9日赤十字国際委員会の駐日首席代表として来日。広島の原爆被災の惨状を聞くや直ちに占領軍司令部へ行き、広島救援を強く要請する。9月8日、調達した大量15トンの医薬品と共に廃墟の市街にはいり、惨禍の実情を調べるとともに、自らも被災者の治療にあたる。彼の尽力によって助けられた被災者は数知れぬという。この博士の人道的行為に感謝して1979年9月8日これを建てる


 左の写真は2011年12月7日撮影。
   
   
日本赤十字広島病院入口にあるレリーフ。

左の写真は2013年7月12日撮影。
   
                      
 
 2004年6月20日、生誕百周年記念祭が行われました。その様子の一端を撮影していますので紹介します。
   
 
   
 
   
 
   
 
   
 
   
   
   
 
   
   
   
 
   
                        
 

(※ここで、このホームページ作成者、私の個人的な心情を語ることをお許しください。私は被爆者でも被爆2世でもありませんが、実はこのマルセル・ジュノー博士等の活動なしには今の私は存在はない、この方が命の恩人だったんだな、たぶん、と。このような活動をしていてはじめて気が付きました。

私は1946年8月3日、広島から約60`離れた山口県柳井市で生まれ育ちました。子どもの頃母親から、よく聞かされていました。「お前は2歳頃、結核にかかって、もう助からないと医者から言われていた。そこにペニシリンという大変高価な薬が入ってきて、財産は全て投げ出し実家からも援助して貰って、その注射を打ち、それで助かった」と。

ある本に書いてありました。マルセル・ジュノー博士等の活動で入ってきた医薬品は、廿日市の大野陸軍病院にも送られたが、せっかく被爆者のためにと送られてきたのに、そこで大量の横流しにあった、と。ペニシリンもその中にあったと。柳井市は広島の商圏。私を助けてくれたペニシリンは、その横流しされた医薬品に違いない、と思いあたりました。全ては記憶、憶測の世界のことです。)