8.旧県庁舎跡記念碑と 県職員原爆犠牲者慰霊碑  (中区加古町17・本川河畔) 
   
   

碑文 「広島県職員原爆慰霊碑

昭和二十年八月六日投下された原子爆弾は広島県庁および出先機関職員のうち八〇〇有余の生命を一挙に奪い去った 祖国のために一身の安危を顧みずひたすらに公務に精励していた人々のこの尊い犠牲はまことに痛借きわまりない この附近は当時の殉難者が最も多く眠るところである このゆかりの地を選んで碑を建て身をもって平和の礎となった人々をまつる。

昭和33年8月6日 広島県知事 大原博夫」

中区民文化センター(アステールプラザ裏)に、「広島県職員原爆犠牲者慰霊碑」(上)が1958年に、その南に銘盤が昭和44年8月6日建之されています。銘盤の人数は筆者が数えたところ1132名?の名前が読み取れました。広島県知事永野巖雄と記されています。

1995年「旧県庁舎記念碑」が建てられています。

   
   

旧県庁の写真の下の碑文

 「この建物は明治11年(1878年)、当時の広島市中区加古町(当時の水主町)に広島県庁舎として新築されました。以来67年間にわたり、広島県行政の中心としての役割を担ってきましたが、昭和20年(1945年)8月6日に投下された原子爆弾により壊滅しました。

 この被爆により県庁舎や県の関係機関において1,141名のも及ぶ広島県職員が犠牲になりました。 その後、県庁は、安芸郡府中町(現在のマツダ株式会社内)、広島市霞町(現在の広島大学医学部付属病院内)を経て、昭和31年(1956年)に広島市基町に設置され、現在に至っています。  平成7年(1995年)8月6日 広島県」

   
 

 中区民文化センター裏のこのあたりは、戦前、水主町(かこまち、今も同じ読み名)と呼ばれ、県庁、武徳殿、県病院と並んでいました。昔の面影はありません。近年整備された河岸の中に、この3つの碑は並んで建っています。

真ん中の電飾燈には「平成七年(1995年)8月6日 広島県原爆犠牲者遺族厚生会」とあります。

焼け跡で集めた遺骨はリンゴ箱十杯分もあったといいます。戦災孤児達が靴磨きで飢えをしのいでいた1949年、広島は皇太子(現天皇)を供養塚に迎えました。核兵器禁止を初めて訴え、平和擁護大会が開かれたのもこの年です。あれから54年になります。

外人教師が、「日本の戦後の繁栄は、日本人の忘却の能力と、未来への集中が支えた」と指摘したといいます。しかし、忘れていいものと、忘れてならないものがあるでしょう。

写真はいずれも2008年9月2日撮影