7.比治山橋東詰め道標(南区京橋川河畔)
   
   

比治山橋を撮影に現地にたちよったところ、東詰め南側に「道標」らしき石碑が立っているのに気がつきました。以前は目が肥えておらず見逃してしまったのか、あるいは最近設置されたものかは、今後の調査で行うとして、あるがままに紹介します。多分元からここにあったものではなく、近くのものを移設された(複数の合体も考えられます。)ものでしょう。被爆遺跡には間違いありません。

電車通り側から読んでみました。

(表)御幸橋停留所へ右約九町三十七間 

   宇品港御幸松ヘ左約三十町十二間

   
   (左)本川へ約三町三十八間。丹那橋へ約十九町四十九間

(裏)比治山御便殿へ約八町十四間。

  廣島驛へ約十九町二十七間

   
   石標電燈 寄付者土手町 坂本常蔵 大正十年十二月1日 廣島電氣株式会社

(2005年夏、このホームページの読者で地元居住のTさんより、下記のとおりこの石碑の由来を調べてみたが結果は「わからない」ということでしたが、この調査自体貴重なものですので下記に転載させて頂きます。)

「比治山橋東詰めに石造りの道標」について調べてみました。私が幼い頃に数メートル離れた所にあり歩道工事で今の場所に落ち着いた経緯を知っている私としては、前から興味があったのですが。。。

結論としては。。。わからない。

廣島電氣株式会社の後身、中国電力に尋ねたところ

>現在,公道や管地にある石碑等で当社所有のものはありません。

>お問い合わせの石標や坂本常蔵氏についても、当社の企業年鑑等いろいろ資料を調べてみましたが、それらに該当する記述はありませんでした。

>廣島電氣株式会社は大正10年に廣島電燈と廣島呉電力が合併し設立されています。当社の前身のひとつではありますが,昭和17年に配電統制令により廣島電気をはじめ中国5件の電気事業者が統合されて発足した,中国配電株式会社の時代に戦火もあり古い時代の資料はほとんど残っていないのが実情です。

>石標が比治山橋の市道ルート上でしたら,道路管理者である広島市南区役所の建設部管理課に尋ねたら判るかもしれません。

南区役所に尋ねても
>記録がないからわからない。わかったら何か教えてください。

との事でした。

坂本常蔵氏にとっては、名誉の寄贈だったはずなのに、後世には何の資料も残っていない。戦争というものの残酷さ、非情さを、今後、数百年は残るであろう、あの石柱が静かに語っているようなきがします。