17.日清戦争凱旋碑(南区皆実町六丁目3−10) 
   
   

小さな公園にあります。「平和塔」となっているので、見ただけでは何のことか判りませんが、まさしくこれは「日清戦争凱旋碑」(凱旋碑と書いてあった)なのです。そしてこの前の宇品へ向かう通りを、御幸(みゆき)通りといいます。1885年5月完成、明治期の道としては圧倒的に広い道です。軍用を意識して造られたことは宇品港を築港した千田貞暁の政府への国庫補助を要請する手紙(1886年)「この工事は一つの地方のことではない。また近隣諸州にわたる交通旅客の利益だけではなく、広く全国一般の兵務にとりても大便益になる」からも判ります。

この凱旋碑の前を通って兵隊は宇品港から大陸に送られていきました。このあたりまで町の名は宇品御幸(うじなみゆき)といいます。御幸とは天皇の行幸から来ているのは判りますかな(最近は質問しても判らない人が多いようで喜ばしいことかも知れません)。

   
   1895年7月ここにパリの凱旋門に似た張りぼての仮の凱旋門が作られ、戦勝で沸く市民に迎えられ、軍隊が戦地から帰還しました。翌年10月、この地に軍・官・民三者の手によって、現在の物に建て替えられました。碑の上の球形石の上には両翼を張った鵄(金鵄勲章の金鵄・・・トビということですが、広くはタカの記念碑と呼ばれていた)の鉄像を置きました。戦勝記念碑だけに、太平洋戦争中も金鵄像は金属徴発を免れました。

1947年、進駐軍にとがめられるのを恐れて、「日清戦争凱旋碑」の文字を落として「平和塔」の文字を入れたといいます。ですが、上の鳥の像は、どう見たって「平和の象徴」の鳩などとは見えない荒々しさを感じさせます。

(上の写真1995年広島女学院高校の生徒さんを案内して。下(左)の写真2012年4月25日、


   
   これは2012年5月8日撮影
   
   

入り口の石門、左は「大手町通」、右は「東松原停車場通」とあります。爆心地から約2.7キロ。石造りのの物としては、被爆遺跡とするには少し遠いですが、戦前はこの回りは畑。この公園と凱旋碑はひときわ高くそびえていました。その時、前を通っていた道路の名前を示しているものと思われます。

2012年5月8日撮影

 

   
    2014年5月7日撮影