16.消えた皆実町中通り、三階建て木造建物(南区皆実町五丁目5−2) 
   
 

皆実町のこのあたりは、筆者がほろ苦い青春を過ごした町。1970年をはさんで約10年、独身でも、いくらでも友人はいて、寂しいと思うことは少なかった、いやかしましすぎたようでした。最近、ご無沙汰しているうちに、近くに大きな通りが出来たりして、かなり様相が変わっていると思っていました。2004年になって、このホームページの読者から、この爆心から約2.6キロ木造被爆建物の存在を教えて頂きました。が、それもつかの間、2005年初頭、壊されてしまったようです。

「皆実町の歴史」というホームページ(消えています)にはこうありました。

−げた音消えた学生下宿−木造三階建て。昭和の初め、皆実町5丁目に建てられた。当時は珍しく、見学に来る人もあった。窓枠は新しいが、木の手すりや格子窓はそのままだ。戦前、この建物には旧制広島高校の生徒が下宿していた。白線の入った学生帽にマント。げたを鳴らして歩いた。「遊ぶときは遊び、勉強もよくしていた」と地元のお年寄りは話す。原爆で傾いたが修復され、戦後は広島大学の学生が住んだ。
今も一階でクリーニング取次店を営む原昌子さんは、ここで賄い付きの下宿をしていた。「部屋に落書きが残っていますよ。子供と遊んでくれたり、昔の学生さんは純粋でした。」学生の姿が消えて久しい。「いい町ですが、お年寄りが増えました。」と、原さんは時の流れを話した。
』   

   

電車から降りて、中通り商店街に入って、郵便ポストのある四つ角を右(南東)に折れると、すぐにご覧の建物が見えました。クリーニング店以外は、どうも人の気配がしませんでした(無人のようでした)。

中通り商店街は、筆者が住んでいた頃より、やはりかなりさびれていますが、知っている店が多く、基本的にはそう変わっていませんでした。当時は、被爆者も被爆建物も、特に注目するほどでなくいくらでもおられたし、存在したはず。全焼区域外だから、この建物以外にも多分被爆建物は多くあったはずですが。

筆者の友人が、やはり爆心から2.5キロぐらいの昔からの被爆建物に住んでいました。2003年解体して引越し挨拶がきて初めて、「被爆建物」に住んでいた、ということを教えて貰いました。もう跡形も無いそうです。「教えてくれていれば記録をとっていたのに」と悔やんでもあとの祭り。

まだかなり、民家の木造被爆建物は残っている感触を得ていますが、この建物もついに2005年初頭ごろ、取り壊されたと、教えて下さった方から連絡がありました。本ページの消えた宇品港のかっての賑わいを伝える被爆建物あるいは、消えた宇品陸軍運輸部跡民家のように貴重な記録写真になってしまったようです。