19.広島大付属中・高校講堂(広島高等学校)(南区翠一丁目1) | |
2008年初頭までは、コンクリートの渡り廊下が邪魔をして正面全貌を撮影することは不可能でしたが、2008年6月4に新聞で渡り廊下が取り払われ全貌を見ることが出来るようになったと知り、6月16日、近くに寄った際、写真を撮り直しました。2002年5月に訪れた時は、国立の付属小学校の児童殺傷事件の影響で物々しい警備で色々聞かれ写真撮影も大変でしたが、この日は新聞記事にもなったということらしく、守衛さんは暖かく迎えてくれました。今まではは建物が邪魔して全景は撮影できません」と書いていましたがこのとおり撮影することが出来ました。下の写真は裏に回ってとってみたものです。 左の写真は2008年6月16日撮影。 |
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1927年広島高等学校講堂として建てられました。爆心地から2690mのため、被爆による損傷は大きくなかったようです。撤去の方針で1965年から1970年にかけて新築された校舎に取り囲まれていて、正面からは覗きにくいものになっていましたが、どうやら空気が変わって今や希少な被爆建物として大切にされるようになったようです。 1934年、「広高赤化事件」と呼ばれる、ここの生徒42人、卒業生7人のいっせい検挙、取り調べ事件が起こっていることを記憶にとどめておきましょう。 左の写真は2008年6月16日撮影。 |
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正門入って右に2005年に建立された慰霊碑があります。 原爆犠牲者及び戦争死没者 慰霊碑 広島高等師範學校付属中學校 アカシア会 (裏) 母校の創立百周年にあたり、戦争とりわけ原子爆弾に依って あたら前途有為の人生を奪われた諸霊に対し、 深甚なる弔意を捧げ碑を建立する 平成十七年四月十七日廣島高等師範学校付属中学校 広島大学付属中、高等学校同窓会 アカシア会 原爆死没教職員 岡本恒治外7名 原爆死没元教職員 高橋悦郎外6名 原爆死没生徒 加藤恭三外18名 原爆死没アカシア会員 正岡一薫外66名 戦没元教官 寺田角一外2名 戦没アカシア会員 本村秀夫外121名 左の写真は2012年3月3日撮影。 |
表(道路際)の説明板
「旧制広島高等学校(爆心地から約2.7キロメートル)
原子爆弾の強烈な爆風によって木造の後者、寄宿舎などは全半壊の被害を受けました。鉄筋コンクリート造の講堂は、木造校舎に挟まれた形で建っていたこともあって、大きな被害は免れました。
在校生の多くは工場に勤労動員されていましたが、校内にいた学生の中には、建物が壊れ、飛散した窓ガラスの破片などでけがをした人や、火傷を負った人もありました。」
(半壊した校舎 米軍撮影)の写真が上に、下に英文に説明あり。
さらに表の壁には以下のような金属の説明板も貼り付けられています。
「1924(大正139年に開校した旧制広島高等学校の講堂として1927(昭和2)年に完成した建物である。入り口の床に刻まれた2587の数字は、その完成年を皇紀で示したものである。
1929(昭和24)年、広島大学が発足し、旧制広島高等学校は、包括されて、皆実分校(教養部)となった。1961(昭和369年教育学部附属中・高等学校が教養部と入れ替わり、移転してきた。
ロマネスク復古様式を取り入れた講堂は正門正面に位置し、2階まで通じたバットレス状の外壁、正面入り口のアーチ状の扉、円柱及び階段の手すりは濃淡のついた灰漆喰で石材のような質感を作り上げている。
広島市より1994(平成6)年2月に被爆建物として指定を受け、1998(平成10)年有形文化財として登録された。現在も、学校行事の場として、生徒たちに愛され利用されている。」