21.千田廟公園 宇品新開地の記念碑等(南区宇品御幸一丁目8) 
   
   

 1880年、広島県令に赴任した千田貞暁が、沿岸住民等の猛反対を押し切り、私財まで投じて、(1889年には減俸処分)1890年4月に宇品新開地と宇品港が完成、築港されました。

 当初、宇品港は無用の長物と見られたりしましたが、日清戦争勃発に至るやこの宇品港が山陽鉄道の広島までの開通もあって、絶好の派兵拠点となり、広島に大本営が置かれることにもなりました。

その功績を讃えて、政府は千田元知事に勲三等旭日章を贈り、広島市議会は1898年感謝状を贈り、千田氏死後の1908年「宇品築港記念碑」を建設。1915年には「千田貞暁の銅像」、1925年には「千田神社」を建設し、毎年4月23日に祭典が行われてます。2003年4月24日の中国新聞にも「宇品港114年 先達に敬服」とその偉業を称える記事が小さいですが写真入りで出ていました。 
また、現在の広島大学跡付近の千田町の名も千田貞暁の名から取ったものです。

下に文字の消えかかった「宇品築港」の説明板がありますので記しておきます。(もう一つの「千田貞暁銅像の由来について」=次ページ=より簡潔にハッキリかいてあります!)

左の写真は2008年4月28日撮影。

   左の写真は2014年5月7日撮影。
   
 右の写真は2014年5月7日撮影。

さらに1940年、広島県は築港50年記念で「千田貞暁と宇品港」を出版。

これらの物が原爆の被災にもかかわらずそのまま現在でも千田廟公園内に残っており、毎年千田貞暁が広島繁栄の恩人として盛大な千田祭がおこなわれています。その目は西の大陸に向いているのですが。説明板があり、千田貞暁を称えています。一番下に記しておきますので、どう思われるか一読してもらいたいものです。

その上の古い「宇品築港」の説明板の方が、アッケラカンと説明しているように見えます。(日清戦争以降の軍用港として利用された肝心の件について触れていないのは何故?)

 
   
 從軍記者の心得となった「行かばわれ 筆の花散る処まで」という「子規句碑」(下のもの、松山の俳人、正岡子規が1895年3月従軍記者として中国に派遣されるとき、宇品港にたちより、20日間広島に滞在し、4月詠む)もあります。呉にもバス停に「子規句碑前」というのがあります。  
左の写真は2014年5月7日撮影。
   
 なお、この公園内に「御幸松」(1899年宇品海岸にー大正天皇皇太子時植樹、石碑は1909年設置、昭和になってここに移されたものー右の写真)というのもありましたが、2010年に元あった場所の近くの道路脇緑地帯(宇品海岸二丁目19番)に戻されています。

右の写真は2005年6月19日撮影。御幸松碑がまだありました。
 
   
千田廟社
左の写真は2008年4月28日撮影。
   
 右の写真は1995年6月10日撮影。  

                      

入り口に説明板が2つあります。

宇品築港

 
明治22年十一月、県令千田貞暁は、住民の反対や風水害など多くの困難をのりこえてこの工事を完成した。
 産業振興の目的から築港されたものの、当時は、産業、運輸手段ともに未発達であり、この良港もその真価を発揮することができなかった。
 しかし、日清戦争を契機に大陸への兵員・物資輸送の拠点としてその重要性を高めていった。
 軍用港としてはじめて、その価値を認められた宇品港であるが、戦後は広島市の産業に欠かせない港となっている。

千田翁銅像の由来について

千田貞暁翁は、明治十三年広島県令(県知事)として就任され、県下の状勢をいろいろ調査された結果、広島湾が年々大田川の流砂のために。海運の支障が著しいので急いで築港しなければならないと決心されました。

しかしそのころの国の予算は支出が多く築港に必要な経費の援助を十分に受けることができないので、浅野氏から旧藩士に与えられた授産補助金三万円と、国庫金二万円、寄付金三万円合計八万円を資金として明治十七年九月五日起工式をあげられたのであります。

しかし、工事はたびたびの風水害に見舞われ、特に明治十九年九月十七日には高さ五・五メートルにも及ぶ海潮が新堤を破壊して、工事はほとんど全滅の状態となりました。

そのためひじょうな資金難となり、それに加えて築港工事にかねて反対のものたちから、いっせいに非難攻撃が起こり、あわや中止かと危ぶまれました。が、かえってこのことが翁を勇気づけ、私財を投じ身命をなげうってこの大事業を続けられたため、さすがの難工事も、着々と進行しはじめたのであります。完工を目前にして翁は遠く新潟県に転任になりました。

が、明治二十二年十一月、総工費三十万年、五年三ヶ月の長い年月を費してようやく完成したのであります。

大正四年十一月三日、宇品港をつくるなど広島のためにつくした翁のりっぱな業績を記念するため、設計図を手に堂々と広島湾をのぞむ翁の銅像がたてられたのであります。

このときから毎年四月二十三日翁の忌日には市民がここに集まり、偉業をたたえ霊をなぐさめているのであります,