「神田神社
神田神社は文亀元年(一五〇三)当時祇園町の武田山にあった銀山城の城主として安芸の地を治めていた武田元繁が、祖国甲斐の国、今の山梨県から城の護神として安芸郡牛田村、今の東区スポーツセンターあたりに奉遷したのが始まりだと言われている。その後武田氏は毛利元就に滅ぼされ、社殿は荒廃したが、元就の孫の毛利輝元が広島城を築城すると、輝元は神田神社の荒廃を憂いて天正一九年(一五九一)武田氏の遺臣池田宮内を神主として社殿を再建し、広島城の守護神として祭った。今の神田橋というのは神田神社に参拝するために架けられたもので神田山という地名も神田神社に由来していると言われている。
毛利氏に替って福島正則が城主になると福島正則は各地の社寺の領地を悉く没収し神社は再び荒廃し始めた。その荒廃ぶりを嘆いた地元の村民の篤い願いを福島正則はやっと聞きいれ、神社の護持を村民にまかせるようになり、神田神社は牛田村の氏神様として牛田地区の村民等によって祭られるようになった。
明治二十二年(一八八九)神領地は旧陸軍省の用地となり、神田神社は当時千田貞暁が埋立てた新開地である宇品に移転した。宇品の住民は神田神社の奉遷を心から祝って最初に出来た道路に神田通りと名付け、以降、春日通り、住吉通り、八幡通りと神社にちなんだ名を付けた。
明治三十三年(1900)台風による津波で神社は大破し昭和六年(一九三一)現在地に新築移転した。昭和六十年(1885)四月二十一日不慮の火災により全焼したが、翌六十一年九月に約二億三千万円の浄財で復旧造営した。
平成十五年十月 神田神社鎮座五〇〇年記念
主祭神 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇」
|