40.港の歌碑と平和の礎 (南区宇品海岸三丁目11・宇品中央公園)

 

 宇品中央公園には、「港」という有名な歌の碑もあります。(建立由来記=前の立て札の碑文は下に。

この歌は、「由来記の説明」にはそうとありませんが、1番の「はしけのかよい」ば、2番のような穏やかな情景も時にはあったかも知れませんが、多くの時期は、沖に待つ陸軍の輸送船に、ここから兵士が小型舟で乗り移っていった様子をうたい込んだものと思われます。

空も港も 夜ははれて  月に数(かず)ます     舟の影 はしけのかよい にぎやかに

よせくる波も こがねなり

林なしたる 帆柱に 花とみまかふ 船印  積み荷の 歌の にぎはいて 港はいつも 春なれや

左の写真は2003年8月6日。
   
 

「よせくる波もこがねなり」とは、大陸・南方への進出(侵略)目的まで歌い込んでいるというのは、筆者のうがち過ぎでしょうか?

この港は、日清戦争以来、戦前の多くの時期を陸軍関係に使用されており、平和な輸送目的に使用出来たのはほんの一時期だったはずで、この地域での漁業・航行・工場建設など、すべて、陸軍運輸部の許可制(1933年)になっていました。

ここが、すっかり「機密」の「要塞地帯」に指定されてしまったため、別に「商業港」を作る必要が生じてしまい、今の「広島港」(県営桟橋)をつくりかけたところ(1936年起工)で、敗戦になったものです。

右の写真は2000年8月撮影。

 
   
   
   
 また、1995年(財)全国抑留者協会広島県支部慰霊碑建立委員会による「ありし日に君と遊ひし 砂の浜 ここに建つなり 平和の祈り」という「平和の礎」が建てられました。(歩兵11連隊碑文書き替え騒ぎがあったあとのためか?碑文はいたっておとなしい。裏の碑文は下に。
右の写真は2014年5月7日撮影。
 

                        

『港』の歌碑建立由来記

 私達が、小学校時代を連想するごとに。口ずさまれる国民唱歌の一つに「空も港も夜は晴れて……」の懐かしいメロディーがあります。

 しかし、この歌がいつ、どこで、だれによって作られたものか忘れられ、いうなれば流浪の歌の運命をたどっていました。
 ところが、昭和四十八年八月、全日本海員組合の宮城伸三氏が前任地博多から広島に赴任され、ある日、宇品の居酒屋で、たまたま同席した一老人から、この歌は宇品を歌ったものであることを聞かされました。

 そこで、同氏は広島といえば、原爆の都市という暗いイメージを与えているが、この明るく生き生きとした情緒あふれる名曲を掘り起こし、広島のイメージ・チェンジをはかるならば、今後、広島の子供達の情操教育と、海事思想普及に貢献することができるだろうと考え、地元海運関係者や有志に呼びかけました。一同これに賛意を表し、いろいろ調査研究の結果、作詞は旗野十一郎氏、作曲は吉田信太氏(いづれも故人)場所は宇品暁橋(通称めがね橋)であることを確かめました。

 その結果、数多くの人々の協力により、昭和五十年七月二十一日、海の記念日のよき日に地元小学生等の手によって序幕され、ただちにこの歌碑を広島県に寄贈されました。
 こうして国民に親しまれました「港」の歌は流浪の旅を終え、生まれ故郷の宇品港に帰ることができました。

○ 歌碑は船の煙突をかたどった円筒型のコンクリート製(高さ三・九米)歌詞の四十八文字は、地元三小学校の四年生による一人一字の手書きであり「港」の字は港湾管理者宮沢県知事の自筆です。

○ 歌碑の周囲の「いかり」は呉市、内外運輸鰍フ寄贈です。

○ 歌碑の裏面の「歌碑建立発起人一同」の文字は、建立の推進役をした全日本海員組合中国支部長の宮城氏に書いてもらいました。

○ 建立関係の書類、序幕のアルバム、資料は末永く記念するため、ここに保存してありますから御閲覧下さい。


全国抑留者協会広島県支部慰霊碑裏碑文

先の大戦の後においても、強制抑留された本県出身者の多くは、この地宇品港から出港した。
その軌跡をここに刻み
世界の恒久平和と広島港が国際平和港として発展することを祈念して、この碑を建之する。

平成六年十二月吉日
財 全国強制抑留者協会 広島件支部 慰霊碑建立委員会