41.陸軍糧秣支厰倉庫跡のモニュメント(南区宇品海岸三丁目11)


   

1997年まで、戦前の面影を残すレンガ造りの立派な建物が残っていました。宇品駅、宇品港のすぐ近くなので、戦時中、陸軍糧秣支厰倉庫として大いに活用されました。なおこれら「陸軍糧秣支厰」及び倉庫の建設には数多くの朝鮮人強制労働があったことが確認されてます。

(左の写真、1995年6月11日撮影)

   
 前ページの「港の歌碑」の裏にも垣間見ることができました。
右の写真は1995年6月10日撮影。
宇品駅跡のそばです
 
   
 左の写真は2012年1月27日撮影。

今はこのようなモニュメントだけ残っています。
 左の写真は2012年1月27日撮影。

(下にモニュメントに添えられている説明文紹介)

右手に、数年前まで、戦時中宇品陸軍運輸部が使っていた民家がありましたが今は撤去されています。左手には元の水上警察署が見えます。そして、日清戦争後「凱旋通り」と呼ばれた宇品御幸通りに入ります。このあたり、軍港宇品界隈の戦前の賑わいを偲ばす数軒の旅館等(被爆建物)も残っていましたが、南道路の建設が進んでいき、この後消えてしまいました。

   
 

(モニュメントに添えられている説明文)

広島陸軍糧秣支廠倉庫(爆心から約4.6キロメートル)

陸軍糧秣支廠は、戦時において必要な兵隊の食料や軍馬の飼料を調達、補給するために設置されました。1894(明治27)年に日清戦争が始まると、当時山陽鉄道の西端であった広島駅とここ宇品を結ぶ軍用鉄道を二週間あまりの突貫工事により完成させ、宇品港は第二次世界大戦が終結するまで陸軍の海外への輸送基地となりました。この倉庫は、1910(明治43)年頃、軍需物資を保管するため、宇品駅のプラットホームに沿ってレンガ造りで建てられました。1845(昭和20)年8月6日の原爆による被害は、爆心地から離れていたため軽微にとどまり、傷ついた大勢の被爆者たちはこの付近の陸軍の関連施設に収容され、手当てを受けました。戦後、日本通運株式会社に払い下げられ倉庫として利用されてきましたが、1997(平成9)年、広島南道路の整備にあたり、被爆建物として歴史を後世に伝えるため、その一部をモニュメントとして保存するものです。

写真(旧広島陸軍糧秣支廠倉庫 1985(昭和60)年4月 井出三千男氏撮影 日本通運株式会社寄贈)

左の写真は2009年1月20日撮影。