52.黄金山町観音寺・本堂・鐘楼・墓石(南区黄金山町12番)
この観音寺に来てみて驚いた。とにかく墓地が広い。近くには黄金山墓苑もある。西区の三滝墓苑より広いかも。南区には長く住んでいたが、区役所の職員としては働いたことは無かった。中区、西区、東区、安佐南区、佐伯区は仕事で戸別詳細図持ちながら駈けずり回っていたので、ほぼ知っているが、生活だけでは盲点があるものと思い知らされた。 | |
長い坂を上がり、本堂からあたりを見回すとえらく広い墓地だ。 2012年10月13日撮影。 |
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訪ねたのは被爆建物。 石段の下に広島市が説明プレートを設置している。 「被爆建物 被爆時の名称 観音寺 (爆心地から4,250m) 階段上の本堂と鐘楼は、昭和20年(1945年)8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。広島市」 また次のような説明板がある。 「観音寺 仁保城の城番であった三浦兵庫頭元忠が菩提寺として建立し、その時の山号は黄金山でしたが、慶長(1596〜1614)年間に梵潮や毎日と改称されました。 元忠の城番は天正(1596年〜1591年)末期から慶長元年(1596年)までの期間であったらしいので、この寺の創建はその初期の頃であったろうと推定されます。 その後、江戸時代にすいちゅ衰徴無住となってしまいましたが、正保年間(1644年〜1647年)に僧雲嶺によって再建され、三浦元忠の墓と言われる墓碑が残っています。 仁保郷土史会・仁保公民館」 |
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上が本堂、右が鐘楼。 | |
墓石を覗いてみた。やはり昭和20年8月6日没という文字が飛び込んでくる。 左は、昭和廿年八月六日原爆死 五女 愛子 墓石を覗いてみた。やはり昭和20年8月6日没という文字が飛び込んでくる。 左は、昭和廿年八月六日原爆死 五女 愛子 |
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右は 昭和二十年八月六日歿 幸江 十四才とある。 さらに、昭和二十年八月八日原爆死 長女 小百合 十五才、 昭和二十年八月六日 みつる二十二才と、すぐに目につく。合掌。 |