5.不動院 (東区牛田新町三丁目4−9) 

爆心地から3.9キロ。ここは、離れているうえに山の陰になり、原爆の被害は少なく被災者の避難の場所であった。それと共に、市内に残る数少ない歴史的名所でもある。

 南北朝時代の初期14世紀中頃に足利尊氏が、元弘の変以来の戦死者の冥福を祈るため全国60余箇所に建てた安国寺の一つで、今から650年前に建立されたもので、記録によると、景陽山安国寺と称している。安国寺は、安芸の国守護の銀山城主武田氏の保護を受けていたが、武田氏滅亡の頃、伽藍が戦火により焼失、寺も衰退した。
その後安国寺恵瓊が天正年間(1573〜91)にこの寺の住職に、堂塔は主にこの頃再建整備された。また福島正則が広島城主のとき、宗旨を臨済宗から真言宗に改め、寺名も不動院に改められた。ここには国宝の金堂、国の重要文化財の木造薬師如来座像、鐘楼、楼門、県の重要文化財の木造仁王立像がある。又、裏の墓地には、武田刑部少輔の墓、豊臣秀吉の遺髪の墓、織田信長と秀吉とを批評した言葉で有名な安国寺恵瓊の墓、福島正則の墓がある。

   1994年4月9日に訪問した時の武田刑部少輔の墓と豊臣秀吉遺髪の墓前、
   
 写真は2012年5月27日撮影  
   
   写真は2012年5月27日撮影
   
 写真は2012年5月27日撮影  
   
 写真は2012年5月27日撮影

            

 (1)金堂(木造入母屋造り、こけら葺)
周防の国、山口に大内義隆が建てたものを、安国寺恵瓊が移築したものと言われ、1540年に建立され、1915年に解体修理が行われている。原爆にあったものの、大柱4本が折損、その他屋根瓦等の損傷があった程度で、1950年に災害復旧と屋根の修理が行われ、現在に至る。なお、住職がおられれば、頼めば中も案内して貰える。

写真は2012年5月27日撮影
 
   
   (2)不動院 楼門(木造入母屋造り、二階建て本瓦葺) 
 安国寺恵瓊が朝鮮から持ち帰った木材を使って、1594年に建立、完成したものと言われている。原爆にも大きな被害はなく、1963年から翌年にかけて解体修理され、現在に至る。
写真は2012年5月27日撮影
   
 (3)不動院 鐘楼(木造重層袴腰付、屋根入母屋造り、こけら葺)
1433年に建立されたもので、内部に朝鮮鐘を釣る。1588年に移築されたものと考えられる。その後1600年代に小修理が行われ、1897年内部床及び壁に改造を加え、大正初年に屋根葺を茅葺にされたが、原爆により屋根が荒廃、雨もりで白壁は殆ど脱落、1956年解体修理を完了、旧規に復した。
写真は2005年2月11日撮影
 
   
   

(4)不動院 本房(木造寄棟造り)           

安国寺恵瓊の頃は禅宗であったが、1601年福島正則が藩主になるに及んで真言宗に改め、不動明王を本房に移して不動院と称するようになった。現在の建物は1925年に(旧二階建て)建て替えたもので、1945年(昭和20年)の原爆被害も比較的少なく、1948年頃に修復、現在に至る。
 不動院は、市内中心部で被爆した人達が郊外に逃れる道筋であったために、次々と続く無残な姿の被災者の死の行列は北へ北へと続き、力尽きた人々は死体となって、道路といわず、川土手といわず、埋めていたという。不動院の山門、庫裏、本堂及び境内にも被爆者があふれ、修羅場と化した。人々は足の踏場もないほど押しかけ、瀕死の重症者は水を求め、肉親の名を呼びながら、痛みに呻きながら土砂の上で七転八倒して息を引き取っていった。山門前では、衛生兵が出て、ドラム缶入りの大豆油を用意して火傷の治療を行ったが、順番待ちの列の中で治療を待ちきれず息絶えた人も多かったという。
 背中が二つに割れ、血だらけになった一人の兵隊は、大きな木箱を抱え、御真影だ、と叫びながら治療しようという人を振り切って、金堂に安置し、歩哨に立つんだと言いはり、その前を離れなかったという。しかしいつの間にか居なくなり、その後の消息は不明である。被災者は次々と死体となり、大田川の河畔での火葬は日毎に増していった。その後、家族の引き取り、救護所への移送が進み、8月15日、終戦の放送があった頃には境内に被爆者の姿はなくなっていた。

写真は2005年2月11日撮影