7.戸坂供養塔    (東区戸坂桜上町20・桜ケ丘墓地)

   

あの日、火をのがれて傷ついた身を運ぶ人たちは、大田川の堤防にあふれた。ここ、桜ケ丘団地の南のはてと今はなっている、長尾山のふもとのあぜ道は、再び起ち得ぬ人達で埋ました。当時、戸坂には陸軍病院の分院もあったという関係でしょうか。谷間のあちこちで火葬された六百体の遺骨は、後に平和公園の供養塔に納められました。この碑は最も古く、1946年に立てられ、元騎兵隊裏門の石柱を用いたといいます。肉親と離れ、身元も定かでなく葬られた犠牲者の「人間を返せ」という叫びが、ここ保育園(櫻が丘愛育園ー戸坂桜上町19−の道路を隔てた対抗側の無人の正池平墓地ー新しい墓地が出来て判りづらくなったためあえて書きます)墓地に響きます。

右の説明碑文
(表)昭和二十年八月六日原子爆弾が投下され広島市は壊滅し多くの被爆者が陸軍病院戸坂分院(戸坂小学校等)に非難し死亡された方々の遺骨を仮埋葬してその標識としてこの供養塔が建立された。
(裏)供養塔は昭和二十年十月に建てられたものであるが戸坂村が広島市に合併して四十周年の節目に当り説明文碑を建立して後世に残す
平成七年四月十日 戸坂連合社会福祉協議会