12−2.亀山原爆犠牲者の碑(安佐北区亀山六丁目・福王寺山南麓)

 [石碑正面]

原爆犠牲者之碑.
 昭和二十年八月六日八時十五紛
 原爆投下の際落下傘の落ちた地点
       武田元繁後裔14世
       安光覚遊建之
       平成元年3月
     題字八十八翁津恵保夫
 

慰霊対象は、すべての原爆犠牲者
安光覚遊(広島市西区庚年中4丁目)、1990年(平成2年)2月4日建立
 
 広島に原爆を投下した米軍爆撃機B29「工ノラ・ゲイ」には2機が随伴し、1機は写真撮影、他の1機は爆発による振動や温度などを測定する無線通信装置をパラシュートで落とす役割を担っていたといわれる・。4個落とされた測定装置の3個はパラシュートが開いて、原爆炸裂から2時間あまり後に福王寺山南麓の安佐郡亀山村(現・広島市安佐北区亀山)に落ちた。
 そのうちの1個は,安光覚遊氏所有の山林に落下した。広島壊滅のこの8月6日には安光氏の長男(当時14歳)は動員学徒として出動中に被爆し、パラシュート落下地点近くの次女の嫁ぎ先まで逃げのびたものの、ここで力尽きて息絶えた。

 
 この亀山の地には,市内から続々と被災者が逃げてきたが、その多くは死没した。また当時、安光氏は庚午(西区)の町内会長を務めていて、8月6日の朝も市内中心部への通勤者や動員学徒などを見送ったが、何人かは不帰の客となった。さらに、安光氏の旧友が町内会長を務めていた西隣の草津両町では、この日軍命令によリ157名が国民義勇隊を組織して家屋疎開作業に出動し、全滅の悲運にあっている。
   

  筆舌に絶する惨事を直視した安光氏は戦後僧籍に入り、原爆犠牲者追善供養の道を選んだ。「原爆犠牲者之碑」の建立も早くから意図していたが、事は思うようには進展しなかった。しかし1989年(平成元年)3月に米寿を迎えたのを機に、家族の協力もあって一挙に具体化し、その翌年の立春の日に,長男の死没地近くのパラシュート落下地点で除幕式が営まれた。
 原爆の惨禍とパラシュートの落下の事実を、若い世代に是非ともに伝承してほしいという安光氏の意向により,この除幕式では安光氏の10名を超える曽孫たちが除幕の紐を引いた。
  石碑には「平成元年3月」と彫られているが,これは安光氏の米寿の年であり,碑石のできあがった時を示すものである。
 碑銘は安光氏の旧友の揮竜であるが,除幕式の日には鬼籍の人となっていた。
 またこの石碑の右隣に,原爆犠牲者の追弔のための観音堂が同時に建立された。
「慈母雛堂」の額が人口上部にかかげられた堂内には、釈迦如来・慈母観世音菩薩、勢至菩薩の3像が安置されている。これらの仏前で、今後は毎年8月6日の8時15分に追弔供養が,またパラシュートの落下した10時15分には追弔法要が覚遊氏によって営まれ。・これは覚遊民の子子孫孫にわたって継承されることになっている。
 なお前記のパラシュートと測定装置は、村人からの通報こより広島地区第11警備隊(通称安佐部隊)が当日中に回収し、測定機器は第2総軍司令部と呉海軍工廠に送った。また畳8枚もある化学繊維のパラシュートは3個とも安佐部隊で保管していたが,敗戦後数人が切り取って持ち帰っていた。その1一部が、被爆45周年も間近の8月2日に・安佐部隊の隊員であった栗原雅男氏から広島市平和記念資料館に寄贈された。