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眼下に広大な三菱造成地(多くの朝鮮人強制労働によって敗戦間際に急ピッチで造成されたもの、多くの朝鮮人が住んでいた地区でもある)を見降ろす江波山山腹に被爆五十年になってやっと「まともな」原爆の碑が建設されました。それまで、江波地区は全焼地帯からは免れましたが、陸軍病院の分院もあり、多くの犠牲者が亡くなった地なのに、なぜ「原爆慰霊碑」が無いのか、不思議がられていました。あるのは、江波山のふもとの「海宝寺」で「「満州事変・大東亜戦争戦没者慰霊碑」(下の写真)の中に、原爆犠牲者も一緒になって「慰霊」されていただけでした。同様の、多くの被爆者が逃げてなくなった、庚午地区、牛田地区、戸坂地区には、そういう人たちのための慰霊碑があるのに?と。その秘密は「差別」、そう、「貧しい人ほど差別する」という悲しい現実にある、と見るのは筆者の穿ち過ぎでしょうか?
ともあれ、被爆五十年にして、堂々と外国の人にも見せられる立派な「母子愛の像」が建設されました。子を包み込む母の姿は、聖母マリアを思い起こしさえさせます。
残念ながら、2004年6月5日、この碑に供えられた折り鶴、1万羽が放火、消失されるという事件が起きています。
下にこの写真3枚とともに、 そばに、「廣島工業港 魚介類藻類慰霊碑」というのもあるので、2枚追加しています。
「以下、二つの碑文によって説明に変えます。
「母子愛の碑
原子爆弾による江波町有縁者の犠牲者は、推定一万数千人に及んでいます。犠牲者の魂安なかれと祈るとともに核兵器の根絶を願い、原子爆弾による惨劇から半世紀経った平成7年(1995)にに建立されました。
「平和希望」を礎に、不変の真理で朝ある「おやこ愛」と「生命の尊さ」を訴えています。
作者は、中国広州美術学校教授「「曹崇恩」氏です。
碑文 碑によせて
昭和二十年八月六日午前八時十五分
一発の原子爆弾は相生橋上空五百数十米において炸裂した。一瞬にして街は阿鼻叫喚の場と化した。わが江波町の人的物的被害は中心部に比して軽かったが、時を経ずして、多くの負傷者が見るも無残な姿で殺到し、その数は一万人を突破した。一方、炎熱に耐えかねて本川に入水した無数の死傷者が折からの下げ潮にのって江波町の波打ち際に漂着してきた。その日、江波町は夏祭であったが暗転して惨劇の街と化していった。肉親探し、救護、看護、更には火葬等の諸活動は町内会・警防団・婦人会等、役割を分担しながら秋まで続いた。
あれから時は流れて半世紀、今日に至る江波町有縁の犠牲者は推定一万数千人にも及んでいる。襟を正して、これらすべての犠牲者の魂安かれと祈ることは現代に生きる者の責務であろう。更には人類の滅亡につながる核兵器の廃絶を願い、不戦の決意も新たに、ひいては世界恒久平和の実現を確実に希求するその証として、心ある人々の浄財をもってこの碑を建立するに至った。
碑面は「平和希望」を礎に、不変の真理である「おやこの愛」と「生命の尊さ」を訴えた。作者は中国広州美術学院教授曹崇恩先生であり、日中友好の架け橋ともなればとの想いも含まれている。
願わくはこの心を子々孫々に至るまで受け継ぎ護り給わんことを。
平成七年八月七日 除幕 江波地区社会福祉協議会」
写真は2004年4月3日撮影。 |