27.観音小学校(元県立第二中)門柱と被爆樹クスノキとクロガネモチ、消えたプール   (西区観音本町二丁目1)

 県立広島第二中学校は、1923年に創立。平和公園内に慰霊碑があり教員7人、生徒340人が犠牲となったと記されていますが、学校はここにありました。北側に2箇所、門柱が残っています。一中(国泰高校)のように街中の目に触れやすい場所ではありませんので、それと教えられませんと判りません。爆心から約1.8キロ、全焼区域ですので、勿論被爆遺跡です。今はその目で訪れるのはほとんど卒業生や関係者といいます。そして観音小学校となっています。50メートルプールについては、取り壊しの時新聞に報道されていましたので少しは知られていますが。

写真は2002年5月22日撮影
   
 

以前からあった被爆「くろがねもち」は近くからもってきたもので、下記のように「説明板」がついています。

被爆の木「クロガネモチ」−東観音町で被爆ー

原子爆弾にやられ、傷つきながら、ふたたび芽ぶき、成長した木です。

平和を願い、1989年(平成元年)6月22日ここに移植します。

寄付者 西本光男

移植協力者 脇地二三

 

2007年3月29日、弱ってきたこのクロガネモチの公開治療が行われたと報道されました。

  写真は2002年5月22日撮影

このグラウンドで、学徒に対して手榴弾の投擲、銃剣術、白兵戦技の訓練を、1945年6月15日から行わさせています。

 
 写真は2012年5月12日撮影  
   
   

しかし、樹は残りました。グランドの東側、南側、北側にずらりと並ぶクスノキ、この多くが被爆樹でないかと推測されていましたが、北側の門中近くの4本については明確になり説明板がつきました。

ひばくじゅ木 クスノキ A-bombed tree Camphor treeばく心地から1850m Approx 1,850m from the  hypocentere 

これら3本と東側倉庫のフェンス側にある1本をあわせた4本のクスノキは、1945(昭和20)年8月6日の原ばくにもたえ、生き残ったものです。この地には当時、県立広島第二中学校があり、原ばくにより校しゃが全半かいし、鉄きんコンクリートづくりのこう堂の残骸とプールを残すのみとなりました。校内のぎせい者の数は不明ですが、当日中島新町で建物そ開にじゅう事していた1年生322人は、引そつの教しょく員4人とともに、全員死ぼうしました。
写真は2002年5月22日撮影

   写真は2012年5月12日撮影
 消えた被爆プール(県立二中)  
 

観音小学校のプールについては、1995年の撤去時にはかなり大きく報じられていました。

県立二中では、県立一中に次いでの2号プールでしたが、50bの公認プールが自慢だったといいます。被爆した生徒でいっぱいになり、血の海となったことを、是非想像力を働かせて写真を見て頂きたと思います。(観音小学校のプール、1995年撮影。撮影当時は漏水が激しく作り替えが検討されているとのことでした。爆心から1,700メートルです。)


写真は1994年9月24日撮影
   

被爆に耐えた観音小学校プール

観音小学校の旧プールは、前身の広島県立第二中学校(通称、広島二中)のプールとして、1933年(昭和8年)9月、多くの人々から拠出金・資材の提供を受け、全校生徒・教職員による勤労奉仕によって竣工した。
 全長50メートル、幅15メートルのプールは、県内初の日本水泳連盟公認プールとして、数多くの名選手を生み出し、広島の水泳会を支えてきた。
 1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島市上空で原子爆弾がさく裂し、爆心から約1.9キロメートルの広島二中はすべて焼失し、残ったプールに数えきれないほどの傷ついた人々が、水を求めたと言われている。
 1949年(昭和24年)、観音小学校が創立され、プールは、1964年(昭和39年)、児童用として改修された。(写真左)このプールは、1988年(昭和63年)まで広島市児童水泳記録会の会場などとしても使用してきたが、被爆50周年を迎えた1995年(平成7年)夏、62年間の大役を果たし新しい時代へ受け継がれることとなった。

写真は1994年9月24日撮影
   
 

なお、戦後長らく使用されてきた50メートルプールの現在の姿(25メートルの児童用プールと小プール)について全景を紹介しておきます。



写真は2002年5月22日撮影


 
   
 右の写真は2014年3月6日のフィールドワークにて