34.光西寺 本堂 (西区己斐中二丁目23番3号)

  爆心地から2.93キロメートルの被爆建物。

写真は2012年5月24日撮影 

説明板にはこうあります。

「光西寺本堂
(爆心地から約2.93キロメートル)
人類史上最初の原子爆弾が1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島市中心部の上空約600メートルでさく裂し、一瞬のうちに街は焦土と化しました。
1911年(明治44年)に建てられた光西寺本堂も、原爆の強烈な爆風により大きな被害を受けましたが、倒壊は免れました。被爆後、寺には避難してきた多くの被爆者が殺到しましたが、ほとんど手当てを受けることができませんでした。また、本堂に入りきらない被爆者が寺の前の道にもあふれるといった惨状でした。
 被爆当時、己斐の街は爆心地からの距離にして、近いところで2キロメートル、遠いところでは5.2キロメートルでしたが、ほとんどの家は3キロ以内に集中していましたから、熱線を浴びた人はやけどを負い、猛烈な爆風を受けて全半壊した建物の下敷きになった人もいました。
 火災も発生したようですが、市の中心部のように延焼にいたらなかったのは、警防団の懸命な消防活動と、直後に振った黒い雨のお蔭でしょう。
 また、己斐小学校にも負傷した多くの被爆者が運ばれ、多くの方が亡くなられています。あの日のことは、体験された人々の心に生涯刻みつけられて、「もう二度とあのようなことがあってはならない」と願っておられます。
 被爆体験を家族にも詳しく話さない人も多い。そこに潜む沈黙を私たちは聴き手となって受け取りたい。体験していない者には届かないところにある被爆者の記憶、生き残った人たちが死者の遺した想いに寄り添って生きてきたように、我々は原爆の犠牲になった人たちの想いに心を寄せて、次の世代に受け継いでいかなければならないでしょう。
 光西寺の建物も原爆を体験して生き残った被爆継承の証のひとつであります。2005年(平成17年)、地域の方々の善意と広島市被爆建物保存・継承事業の助成により、本堂屋根の修理が実施され、被爆の惨禍を後世に伝えています。
2005年(平成17年)3月 光西寺」