39.善法寺(西区己斐本町三丁目10−8)

爆心から2,720m。本堂が被爆建物。被爆時三菱重工広島機械製作所の人達が疎開して仕事をしていたという。本堂は西に大きく傾き、屋根や天井の多くが大破し、けが人をだしたといいます。

境内には多くの被災者が運ばれ、救護所、遺体収容所となった、死者は近くの橋のたもとで火葬に付された、といいます。

   

入口の説明板。

善法寺本堂(爆心地から2・74キロメートル)

 一九四五(昭和二十)年八月六日午前八時十五分、人類史上初めての原子爆弾が広島中心部の上空約六〇〇メートルで炸裂し、街は一瞬のうちに焦土と化しました。一九三六年(昭和十一)年に、建立された善法寺本堂は、原爆による消失はまぬがれたもののその強烈な爆風によって大きな被害を受けました。

 戦後、この本堂は何度も修復を繰り返してきましたが、いよいよ痛みが激しくなり、原爆の悲惨さを後世に伝えるため、二〇〇九(平成二十一)年、門信徒並びに地域の方々のご懇志と広島市被爆建物等保存継承事業の助成によって、保存工事が行われました。

善法寺本堂保存工事

竣工 二〇〇九(平成二十一)年三月

施主 善法寺

設計監理 アトリエ・業

施工 松井建設株式会社

(左に昭和十六年当時の写真と英文の説明)

写真は2012年3月18日撮影

   
 

墓石を見てみてみました。右の写真のものには、昭和二十年八月六日原爆死 美枝子十八歳 昭和二十年八月六日原爆死 清子十四才と刻んであります。

その下の墓には、昭和十九年十二月七日比島レイテ島ブラウエン飛行場にて壮烈なる戦死 故陸軍軍医少佐兼品尚志 二十九才、昭和二十年八月六日学徒動員にて土橋方面に出動中原爆戦災死 兼品うたゑ 十四才 とあります。

他の多くの墓にも、原爆死、戦災死と伺えるものが多く見えました。合掌。

写真は2012年3月18日撮影