10.消えた山口銀行本通支店(大林組広島支店)    (中区本通り3−10)
   
   2002年4月20日、被爆建物「旧日本銀行広島支店」の隣(旧日本銀行敷地だが被爆建物の無い場所)に、売り払い後長く何やらビル建設の工事が行われていましたが、新装なった「山口銀行広島支店」が建っているのに気がつきました。

「あれ、本通の山口銀行はどうなったのか?」と心配になり、現地に行ってみました。確かに残っていました。ただ「お知らせ 当夜間金庫は、店舗統合に伴い3月1日(金)以降ご利用になれません。ご迷惑をおかけいたしますがご了承願います。なお3月4日(月)袋町に新装開店の広島支店をよろしくお願いしいたします」のはり札がなされ、閉鎖されていましたので、気になって左のように写真を取り直しておきました。

心配は現実のものとなり、4月24日付け中国新聞に「被爆建物の旧山口銀行本通支店6月取り壊し」の記事が載っていました。(翌日は読売新聞にも。)大阪市内の不動産業者に売り払われ、この6月にも解体されることが、前日判った、という記事です。市は保存策を要望していますが、商業利用のためには取り壊すしか無いということでした。近くのキリンビアホール跡(1992年解体のようなモニュメントだけになってしまうではないかと心配していましたが、2003年4月26日中国新聞に新しいビルの中の廊下に下のようなモニュメントと説明板が出来たと報道されました。(朝日新聞、読売新聞にも)

 

爆心から490メートル。1921年鴻池銀行広島支店として建設。被爆時は、大林組広島支店でした。原爆を受けてコンクリートの外郭は残りましたが、爆風で屋根と窓ガラスが壊れ、内部は全焼。4人の従業員が犠牲になったといいます。

   
 

崩壊を免れたアーチ型の飾り窓は、この箱型の建物の中でひときわ目立ち、取り壊しは慎重にされていき、市民に愛されてきたのですが。

2002年6月13日ついに、原爆の爆風でゆがんだ換気窓の切り取り作業があったと報じられた後、8月には消えてしまいました。(20012年10月18日現在、BEAM左のSAZAN奥に入ったところにモニュメントはあります。)

私たちが約20年前「ヒロシマの今から過去を見て回る会」の活動を始めてからもかなりの被爆建物が解体されていっています。その内、写真を撮っている多くはあちこちで紹介していますが、当初、フィールドワークのコースにも入れていた広島大学医学部1号館,11号館を紹介しておきます。

 
 

この場所にあった建物は、大正12(1923)年に鴻池銀行広島支店として建築されました。設計者は銀行建築を数多く手掛けた渡辺 節(1884〜1967)。本通りのほぼ中央部にあって、小規模ながらルネッサンス様式を基本としたデザインが施され、正面の3連の飾りアーチなどが印象的な建物でした。
 その後、三和銀行平田屋町支店を経て、大林組広島支店となりましたが、昭和20(1945)年8月6日、原子爆弾により被災しました。爆心地からの距離は約490メートル。爆風により屋根が押し下げられ、アーチ窓も吹き破られ、内部は全焼しましたが、倒壊は免れました。建物内の犠牲者は3人が即死し、1人が一カ月後に亡くなりました。
 被爆後、建物は修復され、引き続き大林組広島支店として使用された後、昭和26(1951)年からは山口銀行広島支店となり、昭和50(1975)年には本通支店と改称し使用されました。
 戦後57年間、都心部に残された貴重な被爆建物のひとつとして、本通りを行き交う人々に親しまれましたが、平成14(2002)年に解体されました。なお、この建物の一部(原爆の爆風の痕跡をとどめる換気窓)は平和記念資料館に保存されています。
 この説明板は、この地で被爆した建物を記録し、永く原爆による惨禍を後世に伝えるために設置されたものです。

(写真上)ここに被爆建物がありました。
     被爆直後の状況(1945年、当時は大林組広島支店)
(写真下)解体前の状況(2002年、旧山口銀行本通支店)