34-1.旧軍港宇品港 (南区宇品海岸三丁目12〜23.二丁目12・宇品波止場公園)

 (1)  
  戦前の軍港として使用されていたのは、今の広島港県営桟橋ではなく、新しいパラダイスの塔(広島港築港100年記念)あたりから左の写真の市営桟橋あたりまでです。日清戦争以降使用されたハシケが倉庫群の裏に何本も見えます。大陸への出撃の港です。そばに、宇品駅で使われていたレール(説明あり)と、1998年12月歌人近藤芳美さんの平和と鎮魂の思いを込めた「歌碑」が建てられ、自身の体験も踏まえた趣旨の優れた碑文も裏に刻まれています。また六管桟橋のモニュメントと碑文も備え付けられており、もう説明文を持って歩く必要もなくなりました。宇品港は1932年廣島港と改称されています。
 なおこのあたりの倉庫街、この公園を中心に1998年ごろからどんどん整備が進み、、食事が出来るインテリア店も出来、新しい市民の憩いの空間になってきました。
2005年6月19日撮影。

  左の写真は2014年5月7日撮影。
 (2)  
 

陸軍桟橋と ここを呼ばれて

還らぬ死に 兵ら発ちにき  

記憶をば継げ

2008年4月28日撮影。
 (3)  
 宇品に、陸軍運輸部が置かれ、一筋の石組みの突堤が沖に向かっていた。広島の市民はそれを陸軍桟橋と呼んだ。そうして日清戦争から太平洋戦争にかけて、兵らはこの突堤から沖に待つ輸送船に乗り移り、遠い大陸と島の戦場に送り出されるのが例となっていた。彼らの多くが戦死し、再びこの突堤には戻らなかった。 戦争が遠く過ぎ、あたりは埋め立てなどにより姿を変えたが、今、埠頭の片隅の岸にわずかにかっての面影をとどめる。わたしたちは平和のために、ここに陸軍桟橋があったことの記憶を受け継がなければならない。

一九九八年(平成十年)12月 近藤芳美 記 

陸軍桟橋歌碑建立委員会

近藤芳美さんは、中国歌壇(朝日も)の選者を長くつとめられ、戦争・被爆体験の歌を数多く採りあげておられており、筆者もファンでした。残念ながら2006年6月21日、93歳で亡くなられました。
2005年6月19日撮影。
 (4)  
 陸軍運輸部跡碑

2005年6月19日撮影。
 (5)  
 2006年8月6日のフィールドワークで。
   
             
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 2008年4月28日撮影
 (7)  
 2007年8月6日のフィールドワークで。
 (8)  
 写真は2011年11月10日撮影。ここから見た風景。
 (9)  
宇品港市営桟橋から見た現在の風景。
戦前の写真に出てくるものと同じところ。

左の写真は2014年5月7日撮影
※1931年11月宇品港に反戦ビラが撒かれているのが記録されています。

なお、この宇品港から出港した、輸送艦(元陸軍潜水輸送艇(『まるゆ』八号艇)の艦長さん、宇野 寛氏の手記がホームページで紹介されています。輸送艦は日本製鋼所で製作され、ここから関東の八丈島等を転戦し、伊豆の下田で最後を迎えたとのこと。当時の様子を思い浮かべてください。
 (10)  
  1995年8月6日、フィールドワークは宇品港市営桟橋で。波止場公園が開設されるまでは、立ち入り禁止の倉庫ばかりで、ここからしか昔の軍港の跡は見えませんでした。