16.旧日本銀行広島支店   (中区袋町5−21)
   
   

爆心点より380mという至近距離にありながら、今もなお被爆前の姿をそのままとどめている稀有かつ荘厳な建物です。このビルの位置は、屋外であれば爆風と熱線・放射線で全ての人が即死という、常識的には生命の存在を許さない「死の同心円」の中にありました。あの日、一、二階では日銀の仕事をしていましたが、日銀職員に限っては、当日シャッターを閉めていたため、爆風で窓枠ごと吹き飛ばされたりして、12命中5名即死、重軽傷者7名という被害でした。

それより、広島財務局職員が「この堅牢な建物なら空襲でも大丈夫だろう」と移ってきて三階にいました。三階はシャッターを開けていたため、大惨事となり、120名中93名の犠牲者を出したと記されています。他にも多くの用務員等の犠牲があったと伝えられています。 ここの「慰霊碑」は基町(広島市民病院裏)に1992年支店が移転された際にともにそちらに移転されています。

(左の写真は2012年2月25日)

   
 

1992年、日本銀行広島支店は基町に移転しており、この被爆建物については空家になっており、去就が注目されていましたが(それまで日銀側が時価売却を条件としていました)、2000年5月26日、広島市の提案を受け入れ、「広島平和都市建設法」の適用を受けるとの判断から、「歴史的遺産」として、市へ無償貸与、国「重要文化財指定」後、広島市に無償譲与されることなっています。

筆者達は、この建物の歴史性、重厚さにふさわしいのは、広島に未だ無い「文学館」と思っていました。原爆の証人たちは次第に減り、人々の記憶はうすれていくが、そうした記憶の消滅を防ぎ、時代と人を照らし出すものは文学ではないかと思っていました。が、2003年6月9日、広島市より、幅広い市民の芸術・文化活動発表の場とする利用方針が正式発表されました。多くの人の声がそうであったのならそれも良いでしょう。

 

説明版がここに限らず、建物や遺跡に殆ど付けられています。

   
                    
   
旧日本銀行広島支店内部の様子

20001年1月6日、中が公開された時、入ってみました。(右の写真とさらに3枚、下に)) 2002年11月15日より「原爆の子」にささげられた「折り鶴」の公開(写真9枚ー1番下に)がなされていましたが、2012年3月末をもって終了しました。中々の見物でしたが、残念です。)

カウンターを後ろにして(カウンターの大理石は戦前からのものという)

   
   中は色々な部屋に区切られそれぞれ歴史性、風格を感じさせる。
   
 
   
 左は、金庫(日銀支店の建物自体)の中の、金庫の扉
   
            
   

「原爆の子」にささげられた「折り鶴」の「公開展示試験」(2012年3月末終了)

秋葉市長時代、「原爆の子の像」によせられる折り鶴が焼却処分されることを惜しんで、2002年11月15日から旧日本銀行広島支店内での展示を開始、以降多くの人が訪れましたが、松井市長になって、保存方針を終了(再生活用を探る)こととなり、2012年3月末をもって展示は終了されました。この間、何度も案内していますのでその一端を紹介しておきます。

 (2002年11月29日)
  (2002年11月29日)  
   
 (2003年4月27日)
   
 旧日銀内を案内して頂いていた難波康博さん(左、2冊もの分厚い本も頂きました。2005年12月24日)
   
 (2009年12月26日)
   
 (2012年3月3日撮影)
   
 (2012年3月3日撮影)  
   
 (2012年4月24日訪れたところ、3月末で展示は終了との張り紙があり、かって千羽鶴で一杯だった部屋はこのようになっていました。)
   
                    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(2005年12月24日)